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無題

クレーンが送電線に触れて大停電。
一つ何か気になる。
そのクレーン船は大丈夫だったのか?
もしそっちのほうで死者が出ていたりしたらどうだったろう?
死者が出たことと大停電とは、どちらがより重大と見られただろう?
少年のプールでの死が(と誤解を恐れながら言うが)あれだけの重大関心事になった
のだから、送電線事故で死者が出れば、やはりそれ自体のほうが停電より
大ニュースになるのは当然、ということだろうか。
あるいはそんなのを較べようとすること自体愚の骨頂か。


では送電線事故ではなくて、世界最大の原子力発電所である東京電力柏崎刈羽原子力
発電所チェルノブイリ並みの大事故を起こした場合はどうだろう?
それによって支えられている(はずの)東京圏の電力事情は大混乱になるだろうが、
同時に、筆者も住んでいる新潟県中越では甚大な数の死者が出るだろう。
どちらがより大きなニュースになるだろうか?
あるいは、当然電気を使って字を書いたり紙を印刷したりしている東京のマスコミは
パニックに陥るため、ニュースを報じるどころではなくなるのだろうか?
それとも、大電力会社である東京電力には代替電力源がたくさんあるから、
柏崎刈羽 程 度 の 原 発 が 一 つ 壊 れ た ぐ ら い で は
動じることはないだろうか?
そうは思いたくない。
なぜなら、ここに住むわれわれは常に命を賭してその電力源のそばに住んでいるからだ。
それがもし、その程度の価値しかないのだとしたら、われわれの死は報われない。
柏崎原発が 晴 れ て 大 事 故 を 起 こ し た 暁 に は、
是が非でもそれが原因で首都圏が未曾有の大パニックになってもらわなければ困る。
同じ原因によるわれわれの死と、バランスシート上の貸借が合わなくなるからだ。


人は悲しい。原発のお陰で地元はお国からお金を余計にもらえている。地元民の働き口も
その分だけ余計にある。ひょっとすると、それらがバランスシートの帳尻合わせ分だよ、
ということなのかもしれない。


それでもそうは思いたくない。われわれはもっと誇りを持ちたいのだ。
巨大首都圏の市民生活を、ひいてはこの日本の経済そのものを支えているのは、
原発の隣に住むわれわれでこそあると思いたい。それらを支えるためなら、
われわれはいつ放射能の犠牲になって死んでもかまわない! というささやかな誇りを
持ちたい、それだけなのだ。


なぜかあまり語られないことだが、中越地震震源地と原発は目と鼻の距離だ。そこにまで
大きな被害が及ばなかったのはまさに奇蹟的だったと密かに思う。神はおそらく
山古志村を犠牲にすることによって、日本を救うという選択をされたのだ、と。


柏崎刈羽周辺地域での癌による死亡率は他より常に高いが、そうしたことが
報じられる機会はあまりない。当然ながら電力会社は地元メディアに広告料を
もたらしてもくれるから。やはり人は悲しい、と、すべてはそういうことか…