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『森の惨劇』ジャック・ケッチャム

金子浩さんよりジャック・ケッチャム作『森の惨劇』(扶桑社ミステリー・8/10刊)をいただき、拝読。
http://www.fusosha.co.jp/book/2010/06248.php

ケッチャムといえば10万部超(!)を売り尽くしたという『隣の家の少女』の映画化DVDがついに今月(2010/9)発売されるとのことだが…残念ながら見てみようかという勇気はいまだにとても湧きえない。
あの小説のお陰でケッチャムには弱い。端的に「苦手」といい換えてしまってもいい。といってもひとえに自分がヘタレであるがゆえだとは判っているつもりではある──というかもう少し細かくいうと、つまり表向きはホラーファンを公言していながら、本音では「ほんとに怖いもの」とか「とことんイヤなもの」とか「あと味の悪すぎるもの」などには腰が引けてしまい(あるいは腰が抜けてしまい?)思考停止を余儀なくさせられるのだ。そんなでよくホラーファンが務まるなといわれそうだが──ほんとは務まっちゃいないのかもしれない。例えば近年の有名な例でいうとかの映画版『ミスト』だ。あの映画が大変な傑作あるいは画期的な作だという声に対して頭の中のある部分は理解を示すことができはするものの、一方でその結末のあまりのあと味の悪さをどうしても受け付けたがらない自分がいて──というかそっちのほうが自分の本音だと認めざるをえない、というのがまさにそれだ。つまりそこらがヘタレなんだな基本的に。でジャック・ケッチャムという作家もまさにそういうヘタレの琴線に触れる好例で──というよりその最大の一例とすら言える作家だ。ただこの作家の場合は最大の問題作『隣の…』の破壊力の余韻によるところが大きいわけだが──事実他の作品は恐る恐る読んでみると実は「大丈夫」な作例がほとんどなのだ、『隣の…』のあとに出た『老人と犬』はある種「いい話」だし、ネタのえげつなさでは随一の『オフシーズン』は逆にあまりにもぶっ飛んだテーマなので意外と?大丈夫だし──しかしそれでもどの作にも恐る恐る入らざるをえないのはたしかで、たとえ「大丈夫」な作であっても他の作家にはない独特な「何か」があって、それが小骨のように喉の奥あたりに引っかかってくることも否めない。それは何だろうかと考えると──狭い語彙でいえば結局のところ変なリアルさとか皮膚感覚の生々しさとかいったことになるかもしれない。つまりひどく異常で怖いことなのにどこかでそれが目の前の現実と地続きになっているかのように感じさせる独特の書き方がされているために、その場かぎりの「読み物」としてスカッと楽しみきってしまえないところがあるってことだ。例えば極端な残虐描写で有名な綾辻行人の『殺人鬼』シリーズなどは逆にその描写が意識的に過剰にされすぎているために、却って現実感がなくて笑ってしまうしかないような妙な爽快感?のみがあとに残る。あるいは(またも我田引水になるが)マイケル・スレイドなども同様にその残虐さがあまりに日常性から逸脱しすぎているために怖さがなくてただ能天気で面白可笑しいだけとなる(実はそういうのが好きだ)。だがケッチャムはそうはいかない──とくに件の『隣の…』は。実は同作が出た当時ある思い出がある。一読してそのあまりの凄い内容にビビりながらも、「この作者も残虐描写をホラーとして楽しんで書いてるんだろう」といった(正確ないい方は忘れてしまったが)感想を送ったところ、訳者の金子氏から「この小説はもっと現実的な問題意識で書かれたもの」という主旨の反論を、というかたしなめを貰った。今思えば(言い訳がましいが)あの小説の世界を現実と地続きのものとは考えたくないという無意識の拒否反応があって(つまりそれこそがヘタレさなわけだが)あんな迂闊な感想を生んだのに相違ない。それでケッチャムは無二の「苦手な」作家になったが、しかし当の『隣の…』がその後大きなセンセーションを巻き起こしていったため(自分からすれば「こんなイヤな小説がなんで?」という思いがあった)、「こいつめ、次はどんな作で攻めてくる気だ?」と関心を持たざるえない作家になり、却って一番気になる作家になったのだった。
そこで(前置きが長すぎたが)このたびの『森の惨劇』だ。一言でいうと、これにはかなりビビった。といっても『隣の…』の場合とは全然別の意味でだ──幸いにして。
このビビり感は個人的には最近の海外物だと『WWZ』でのそれに近いかもしれない──勿論分野も種類も全然違うが、「くっそーヤられた──いいところを持ってかれた」という悔しさを味わわされたという意味において。
但しこの「ヤられ」は勿論肯定的な意味であって、上からの続きでいうとこの作家にしてはヘタレにとってもどうにか「大丈夫」な部類に入る──最後までなんとか読み通せるほうのケッチャムではあるということだ──但し上で述べたように、いたるところにこの作者らしい「引っかかる小骨」めいた刻印がばら撒かれているのもたしかだ。帯の惹句は平山夢明だが、同系列の手強さを持つ作家という意味では如何にも相応しい。
ベトナム戦争からの帰還兵リー・モラヴィアンは過酷な戦場体験によって精神に変調をきたし、社会から隔絶した山奥の森の中で犬一匹とともに原始生活に没入している。そんなことは夢にも知らない作家ケルシーら6人のグループがキャンプに訪れ大麻畑を荒らす。怒ったリーは罠を仕掛け6人を次々に陥れ… ──と粗すぎる筋立てで紹介してしまうと、一見他の作家も書きそうなテーマ、あるいはある種のホラー映画にはよくありそうなパターンと見えるだろうが、しかしケッチャムはそんなに単純なものじゃない。文明からの隔絶者リーのテリトリーを図らずも荒らすことになる文明社会人ケルシーは妻と愛人を一緒に引きつれるという奇異な行動をとっていて、しかも有名作家ながらスランプに陥り、これまたキャンプに同行させているエージェントら友人たちとの関係もぎくしゃくしている。前半ではおもにそういう「侵犯者」たちの平和な文明社会でのいざこざや愛憎が語られるが、合間にテリトリーを侵犯から守ろうとするリーの不気味な思考と行動が頃合よく挟まれ、何かとんでもないことが起こりそうな予感を沸々と牽引する。そしてついには堤が切れたように怒涛の後半が展開し始めるのだが──その「展開」がとにかくとんでもないのだ。どうとんでもないかは──ネタばらしになるので書かぬが華だが、それを予想できる読者はまずいないだろうとだけはいいきれる──とくに終盤に関しては。またそのあたりには例によってヘタレの琴線に触れる描写が何ヶ所か出てくることも付け加えておかねばならない。それでもどうにか「大丈夫」な作として楽しめた上に痛烈な「ヤられ」感を残してもくれたので、これは傑作だと素直にいえる。個人的にはこれまで邦訳されたケッチャムの中で一番かもしれない。
あとどうしても触れておくべきは、背景としてベトナム戦争の記憶が色濃くあるということだ。戦争など忘れたかのような平和な社会からの侵犯者を敵視して襲いかかるリーの狂気の行動は、さながら戦地でのベトコンとの実戦で発揮した過去の狂気の陰画であるかのように空恐ろしい凄みとともに描かれる。しかし作者の「序文」によればケッチャム自身はあの戦争に従軍してはいないという。それどころか彼は徴兵を忌避する行動をとっていて、そのことが却ってトラウマのように作家の心にとり憑きひいてはこの小説を書く動機につながっているようだ。戦争を知らないケッチャムが戦争を背景にした小説を書くにあたって映画や著作物を参考にしたのは当然としても、自身とは違って実際に従軍し帰還した友人の体験談をも貪るように耳を傾けたと述懐しているのが面白い。嘗て現代アメリカ人の心理的病巣としてベトナム戦争が当然のことのように毎日どこかで引き合いに出されていた時代があったが(映画や小説の批評にしても社会現象の見方にしても)、太平洋戦争が日本人全員にとって半永久的に相対化できない記憶であり続けるのと同様に、世代が替わって一見忘れられたかのようなベトナムでのショックが「彼ら」にとって実はそう容易く癒えるものじゃないことはたしかだろう。「イラクとアフガンの帰還兵の心の傷が大きな問題になっている今」この小説もあらためて切実さを増しているはずと金子氏は「訳者あとがき」で述べているが、ケッチャム自身このテーマで自作を書くという課題が相当に切実なものだったことは「序文」を読めば明らかだ。実はこの小説の初刊行は80年代後半で、当初は全く評判にならなかったが近年のケッチャム人気の高まりに伴って復刊成ったのだという。日本も「戦争」見直しの機運がこれまでになく高まっているように思えるこの頃なので、その意味でも今こういう小説が突きつけてくるものを噛みしめることはわれわれにとっても無駄じゃないはずだ。
それから本書の「解説」はトーマス・テッシアという向こうの作家が書いているが、これは復刊版の原書に付されているものだとのこと。ケッチャム作品は最初「ホラーとして売り出された」が、「ホラーだろうがスリラーだろうがサスペンスだろうがどうだってかまわない」とテッシアはいう。まさにそうなのだ、ある種の優れた作家の多くがそうであるようにケッチャムもジャンルのみでは語れない作家だ──と、「ホラー作家」という色でとかく分けたがりがちな自分への反省の意味もこめて思う。全くの余談だがこのテッシアという人は本邦ではほとんど未紹介のスリラー作家で、邦訳の企画を複数の版元に持ち込んだがどれも不採用に終わったという個人的経験があるため、本邦で成功した作家ケッチャムの解説者として図らずも再会できたのはちょっと嬉しくもあり微妙でもあった(その「版元」には扶桑社も含まれてる!)。
発表順でいうと本作はケッチャムの第3作で、その前に書かれた第2作はHide and Seekという未訳作で「どんな剛の者でも怖じ気づかせられる」と作者が自負するこれまたかなり手強い小説らしい。本作で次刊への期待が急激に高まったので、是非そこらへんを企画に昇らせてほしいと版元と訳者にはお願いしたい(『かくれんぼ』という仮題も既についてるようだし)。まあ期待とはいっても到底「剛の者」にはなれないヘタレとしてはいつもどおり恐る恐るであらざるをえないが…
というわけで金子さんありがとうございました!
森の惨劇 (扶桑社ミステリー)