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伯方雪日『死闘館 我が血を嗣ぐもの』

事情により大分間が空いてしまったが更新再開。
ということで第一弾は──といっても頂いてから早2ヵ月も経ってしまっているので大いに気が引けるのだがともあれ──伯方雪日氏の初・長篇本格ミステリ『死闘館 我が血を嗣ぐもの』(東京創元社ミステリ・フロンティア 6/30刊)。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488017637

これは待望の本だった──と著しい出遅れレビューでいっても説得力に欠けるかもしれないが、いやこれはほんとに。何しろ伯方氏といえばデビュー作『誰もわたしを倒せない』(ずっと前ちょっとだけ採りあげた→http://d.hatena.ne.jp/natsukikenji/20070601)によって「格闘技本格ミステリ」というユニーク極まる新ジャンルを開拓した人。「ユニーク極まる」という言い方をしたがこれは至極肯定的な意味でなのであって、「格闘技」と「本格ミステリ」という一見「どこでどうつながるんだ?」といいたくなりそうな2つの世界を決して冗談でもバカミス狙いでもなく真剣そのもの・真摯この上ない思い入れと態度でもってつなげてみせたのがその『誰もわたしを倒せない』なのだった。連作短篇集という形をとっているが収録作はいずれも格闘技&プロレス絡みの謎解きミステリで、しかも各作ともよく練られた秀作でありながらそれらの総体にもまた大仕掛けがあるという新人らしからぬ趣向作で、各方面からも読者からも絶賛と好評で迎えられた(Amazonでも6レビュー全部が☆4つ以上)。ところがその後すぐに長篇第一作──それも「〈格闘技モノ〉にして〈館モノ〉の本格ミステリ」らしいという!──が既に書かれているというようなウワサ?があった(当ブログでも上のエントリ↑で触れてた)もののなかなか出ず、随分と寡作な新人だなあという印象が勝ち始めたところへ、このたびようやく刊行実現成ったという経緯だ。
で今回光栄にも贈ってもらえたその作品『死闘館』を拝読したところ──大いに驚かされた。驚いた理由は主に2つある。1つは予想以上あるいは期待以上に「格闘技+本格ミステリ」という趣向の濃度と強度が大幅増になっていたこと。もう1つは予想にも期待にも全くなかったことだが、意外なほどに強烈なエキゾチシズム(と呼ぶべきかどうか心もとないが)が横溢する小説であった点だ。それはどういうことかというと──
──というところでまず物語の導入のあらましからにしよう。格闘技好きの刑事城島(前作『誰も…』でも探偵役になってる)がプライベートでニュージーランドに渡り知人のマオリ格闘家ガトロ(前作のある登場人物の身内だ)の父の住むケレオパ屋敷を訪ねると、そこはなんと山中に忽然と現われた広壮な日本家屋だった。そこには家長テ・ケレオパの子息たちおよびその妻子らが呼び集められ、莫大な遺産を受け継ぐことになる後継者が今まさに選ばれようとしていたが、その条件はなんと──一族の中で「最強の者」でなければならないのだった! …それは家長自身が興した地上最強の格闘技アオテア柔術の後継者とならなければならないからで…というただでさえ緊迫した状況の中で、時恰も嵐と火山噴火によって屋敷が孤立し通信手段も途絶えるという不測の事態(勿論ある種の本格ミステリではお約束の設定なわけだが)が重なり、その渦中でついに連続殺人事件が発生する。現地警察も呼べないため図らずも城島が捜査に乗り出すが、血気に逸る一族の異常な状況下で混迷は深まりさらに事件は重なり… 
…というのが大まかな筋立てだが、もう明らかなとおり「強烈なエキゾチシズム」と記したのはまさに小説の舞台が──他に国もあろうに──「ニュージーランド」だという一点による。しかも場所は密林の中で、舞台となるケレオパ家はマオリ族で、しかもその屋敷はなぜか日本家屋で(しかもその奇妙な構造がこれまたお約束の略図付きで説明される)…といった点がさらにその不思議な異国趣味を強めているわけだが、ではなぜ日本家屋でしかも日本から出た「柔術」なのかとなると、そこが実はこの物語のキモで、家長ケレオパが戦時中に関わったある日本人に淵源があり…ということで小説はケレオパが老齢となった「現代」と若かりし頃の「戦時」の2つの時空が交互に語られるという構成をとっている。しかし小説の中ではそれで納得がいくにしても、作者がなぜニュージーランドを舞台に選んだのかとなると…その答えは「Webミステリーズ!」の「ここだけのあとがき」に記されていた。→http://www.webmysteries.jp/afterword/hakata1006.html 「『誰もわたしを倒せない』に登場させたマオリの格闘家ダレン・スチュードを思い出し、彼のバックボーンを膨らませることによって架空の格闘家一族を考えてみたのです。舞台をニュージーランドに移し、マオリの神話や風俗を調べるうちに(中略)キーパーソンでもあるテ・ケレオパに関してはどんどんイメージが膨らみ、作中作的にその若き日のエピソードを盛り込むまで気に入ったキャラクターとなりました。またマオリの伝統武芸と日本の柔術を統合したという設定から、絵的な面白さも狙ってニュージーランドに日本屋敷を建てることを決め」という部分がまさにその答えだ。検索してみるとニュージーランドという地はレイ・セフォーマーク・ハントなど相当強い格闘選手の出身地だったりあるいは角田信朗がテレビの企画でマオリの「マナ=気の力」(※←本作にも出てくる)を習得するために渡航したり近くは石井慧ニュージーランドでの興行で勝利したりといったこともあり、こと格闘技に関するかぎりわが国でもその道のファンの間ではグレイシー一族の故郷ブラジルやルチャの聖地メキシコに劣らず名の通った国であるようだが…とにかくその発散するエキゾチシズムの魅力には完全にヤられた。実のところ小栗虫太郎の『完全犯罪』をちょっと思い出したほどだ。そっちは中央アジアに建つ西洋館で起こる惨劇という趣向で、衒学や怪奇といった小栗の特徴以上にそのあまりに独特な異国情緒にこそ魅せられたものだが、伯方雪日によるこのニュージーランド版もそれに劣らず…というのもあながちいいすぎじゃない気がする。
前後したが驚いたもう1つの理由である格闘技+本格ミステリの増強という点だが、これはもうそのものズバリ、ミステリとしてのあらゆる要素が格闘技小説としてのあらゆる要素と密接不可分に結びつけられてるってことだ。前作『誰も…』のミステリ・フロンティア版の解説で笹川吉晴氏(※注・文庫版解説は乾くるみ氏)は「この世の中のほとんど全ての事象はプロレスによって説明できる。ミステリもまた然り。それどころかこれほどプロレスとの間に親和性を見いだせるジャンルも稀ではなかろうか」と無茶?とも見える論を展開したが、こうしてジャンルの開拓者(であると同時に唯一の在籍者?)伯方氏の処女長篇の出来を目のあたりにすると、笹川説は決して煽りじゃなく実は流石の鋭い先見だったと思えてくる。読者評には「前作より格闘技の要素が薄らいだのでミステリとして読み易くなった」といった見方があったがそれは違う。むしろ格闘技の本質に触れる純度が高くなり且つ(orそれ故に)ミステリとしてもより濃くなったと見るべきだろう。但し具体的にどういうことかとなると…それこそミステリとしてのキモに触れかねないのでその辺でぼかすにとどめるが、とにかく1つだけいえるのは、そのキモの部分が格闘技に対する作者の半端じゃない愛と見識と知識の深さによって裏打ちされてるってことだ。「死んでもいい。殺されてもいい。たとえ一瞬でも「最強」という恍惚が得られるのなら。そんな男たちへの敬意と愛情を込めてこの物語を書きました」というのが前作での「著者の言葉」だったが、テーマへのそんな激しい姿勢は近作でもより以上に「激しく」発揮されている(実際一部の登場人物たちが命懸けで「格闘技」で闘う描写が数ヶ所あるが、いずれもがただの机上の知識だけじゃ書けないだろう生々しいリアルさに溢れてる)。
上述の「ここだけのあとがき」の末尾で作者は「我ながら面白いものが出来上がったと自負しております。格闘技に興味なくとも大丈夫です(ホントかよ)」と書いてるが、その自負にたがわずほんとに面白いと断言できる。まあ「興味なくとも大丈夫」か否かといわれると…たしかに多少躊躇われはするものの、しかし上で触れたように分野の特殊性だけじゃない「激しさ」「リアルさ」といった普遍面が強く打ち出されている点は誰にとっても共感可能なはずだ──本格ミステリを面白く読める読者ならば。


あと一点だけ蛇足を記すと、伯方氏は既に明らかなとおり筋金入りの格闘技派で、不肖小生はというと実は筋金入りほどじゃないプロレス派だ(というかその中でも専らNOAH派「だった」がその総帥三沢光晴の不慮の死去によって急激に関心減となったことは否めない)が、この小説の面白さが「派」こそ違え「闘い」の面白さまでも思い出させてくれたのもまたたしかだ。 …そういえば笹川氏も筋金入りの格闘技派だったな。何につけ「激しさ」を好むところが伯方氏と似てる気がするのはそのためかもしれないな…
というわけで伯方さんどうもありがとうございました!
誰もわたしを倒せない (ミステリ・フロンティア) 誰もわたしを倒せない (創元推理文庫) 死闘館 (我が血を嗣ぐもの) (ミステリ・フロンティア)