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探偵作家岡本綺堂

末國善己編『岡本綺堂探偵小説全集 第一巻』(http://d.hatena.ne.jp/natsukikenji/20120531)読了。歌舞伎作者にして捕物帳創始者であり怪談読み物の名手でもある綺堂の知られざるもう1つの面=長・中篇探偵小説(創作&翻案)作者という面を発掘紹介し、この作家の読み変えからひいては探偵小説史の見直しにまで迫ろうという一大企画の、これは前半部。主な収録作は「風の夜」「女の一念」「金貨」「呪われたる軌道」「幽霊の旅」「魔女の恋」などの長・中篇で、その中では「風の夜」のみ純然たる創作で他は翻案小説(但し原典不詳の作多し)。「風の夜」は呪いの伝説を背景にした土俗味・怪奇味の強い事件が扱われ「『飛騨の怪談』の原型と言える(末國氏)」という作。この『飛騨の怪談』とは先年東雅夫氏が発掘した長篇怪奇小説だが、末國氏が原型と呼ぶのはそこに探偵小説的な構造上の通底があるからだ。但し『飛騨』では単なる伝説から発展して具体的な〈怪異〉を登場させているあたりに末國氏も「テクニックが向上」していると認めている。それでもやはり東氏が綺堂の本領を怪談作家と見ているのに対し末國氏は敢えてあくまで探偵小説作家という視点で諸作を捉えているところが興味深い。とくに『半七捕物帳』の本質は江戸風俗の描写にありとするこれまでの通説を疑問視し、本書収録の諸作のような探偵小説的方向性が実は作家の基底部に強くあることを説くところに末國氏の眼目があるようだ。そのあたりで綺堂を巡って東氏とライバル関係勃発か?などと思ってしまう(とくに東氏が伝奇怪奇小説『玉藻の前』を復刻して先鞭をつけてるので)のは穿ちすぎかもしれないが、しかし蝙蝠になるわけじゃないが両氏の主張は実は同じ景色を別の鏡で見ているのかもなどと生意気なことを思わないでもない。といっても両者の考えが間違ってるなどというわけじゃ全くなくむしろ逆、どちらの鏡も優れて正しいのだ。例えば「魔女の恋」はホーソーン「ラパチーニの娘」の翻案であり、また鉄道ミステリー「呪われたる軌道」は綺堂がディケンズ「信号手」の訳者であることに繋がっていると末國氏自身見ており、そうしたところで探偵/怪奇両面の志向が作者の中では実は矛盾なく並立共存していたと見てもいいんじゃなかろうか。いずれにせよ諸作とも波乱と錯綜のストーリーテリングで読ませるところは本格的物語作家の面目躍如で、半七の作家/怪談の名手という面のみでは捉えきれないと見る篇者の意図はよく伝わってくる。

岡本綺堂探偵小説全集 第一巻 明治三十六年~大正四年





























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