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本格ミステリとしての「ジキル博士とハイド氏」

natsukikenji2006-11-10

宣伝めくが、と言うかもろ宣伝になってしまうが、拙訳『ジキル博士とハイド氏』(R・L・スティーヴンスン作)が〈味わいの1冊〉フェアに入れてもらえたため、新装にて目出度く再刊成った。元々はミュージカル『ジキル&ハイド』上演の機に版元が新訳刊行を企画したときのもので、編集者氏の思いきった采配のお陰でが担当させてもらえたが、その期待に応えられたかと言えば、正直なところこれまで甚だ心許なかった。が、この機に見直しをしてみて、やはり自分流でやったこともあながち間違いじゃなかったかもしれないという、妙な自信と言うか開き直りのようなものが得られた。
 そんな自分流の一番大きな要素の1つに、この小説の謎解き物的側面への意識ということがある。要するにこれは実は本格ミステリで、例の二重人格テーマはそのための素材だったという見方もできるんじゃないか──極端に言えばそんな思いだ。有名な話だからあえてある程度のネタバレありでごく粗い粗筋を述べるが……この物語では二つの重大事件が語られる。1つ目は冒頭近くでカルー卿という老名士が路上で暴漢に撲殺される事件、2つ目は中盤で医師ジキルが謎の男ハイドの自殺死体を残して研究室内から失踪する事件だ。第1の事件では犯人と目される暴漢ハイドが謎めいた家に逃げこみそのまま行方を晦ます。弁護士アタスンが調べると、その家が実は裏手でジキル医師邸と繋がっていることがわかる。ジキルの身を案じたアタスンが訪ねたところで、第2の事件に出くわす。終盤ではジキルの友人の故ラニオン医師およびジキル本人の手記により驚きの真相が明かされる。ここで肝心なのは、第1の事件において、郊外でなく都市の真ん中の家と家が密接してる環境と○○トリックとの併用により、密閉状況からの犯人消失という謎が成立していること、そして第2の事件において、同じ○○トリック(って隠す意味もあまりないが)と現場が階上という条件により、密室からの被害者消失という謎が成立していること、だ。ここでとくに肝心なのは後者、すなわち事件現場となるジキルの研究室が邸内の階上にある、という点だ。前段階での邸内描写から明らかにそうなのだが、先達の諸既訳ではその点が曖昧になりがちだったのに目をつけ、拙訳はそこを少し強調するつもりでやった(と言ってもなかなか目にはつきにくいと思うが)。実際これはジキルが消えた謎を深めるため、〈どんづまりの場所〉という舞台として作者が意識的に設定したことだと思われる。この小説は1886年でポー「モルグ街の殺人」はそれに40年以上先立つ1841年だし、名探偵・名推理の介在等後者のほうがはるかにより意識的なので、探偵小説の原型などとまでは言えないかもしれないが、少なくともそういう意識が『ジキル…』の作者にもあったんじゃなかろうか、ということだ。そしてポーの例で明らかなとおり、優れた本格ミステリは同時に(あるいはむしろその故にこそ)優れた怪奇小説でもありうる。
……とはいえ、以上のようなことはすでにどこかで誰かが言ってることかもしれないし、何よりも、北原尚彦氏が書いてくれた博引旁証の解説がもっと深いことを数々教えてくれるので、訳者の妄言などはもとより不要ではあるのだが。


※〈味わいの1冊〉フェアでの他の選定作は次のとおり。
アシモフ黒後家蜘蛛の会1』、カー『夜歩く』、クイーン『Yの悲劇』、クロフツ『樽』、ドイル『緋色の研究』、フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』、ルルー『黄色い部屋の謎』、鮎川哲也『リラ荘事件』、乱歩『D坂の殺人事件』、シェリー『フランケンシュタイン』、デュマ『黒いチューリップ』、ヴェルヌ『月世界へ行く』、ウェルズ『宇宙戦争