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河井継之助記念館

natsukikenji2006-12-30

怨念の系譜 河井継之助、山本五十六、そして田中角栄 (集英社文庫) 河井継之助~駆け抜けた蒼龍~ [DVD]
長岡に河井継之助記念館が完成し、12/27(水)より開館した。今までは「河井継之助記念館」で検索するとトップに福島県只見町のそれがきたが、今後徐々に逆転するだろう。なぜ生地であり活躍の地だった長岡を差し置いて只見に先にできていたかといえば、かの地が歿地だったからだ。つまり河井は北越戦争で官軍に敗れ会津へ敗走し、戦傷がもとで只見で死んだ(42歳)。あの町には一度古本狩りに行ったことがあるが(物凄い古本集積場がある)、その記念館には寄らずに終わった。
河井は幕末時長岡藩主牧野家の家老の一人で、薩長につくか隣国会津につくかの究極の選択を迫られたとき、そのいずれでもない「中立」の道を採るべく、薩長恭順派を追放して藩軍の総督になった。有体にいえば、幕末のどさくさに紛れて小藩長岡を独立国にしようともくろんだのだ。全国に幕末の英傑数あれど、そんな大それたことを考えたのは河井しかいない。だが結局北越戦争で苦戦するうちに会津と組まざるをえなくなり、死後は徳川に殉じた守旧派のようなイメージがありがちだが、事実は全く逆、戦乱に乗じてのクーデターをめざして失敗するという反逆児だった。孤立した小藩を守るためのやむをえない賭けとも見られるが、若年の陽明学への傾倒に根ざす革命志向が実はあったかもしれないともいわれる。最後に敗死はしたが、戦略戦術には長け、一度陥落した長岡城を奪還した。有名なのはガトリング砲の購入で、自らハンドルを回して撃った(らしい)。
彼の決断や行動はまさに悲劇の英雄のそれだったものの、結局長岡は敗戦国となり、越後全体が明治以後の日本の発展から故意にとり残される仕打ちを受けたわけで、その原初の責任が河井にあることは否めず、今でも長岡では家系によって河井擁護派と批判派に分かれ、両派の反目は依然根深い(らしい)。郷土最大の英傑であるにもかかわらずこれまで記念館ができなかったのは、そこが遠因だったかもしれない。
ところで面白い観点がある。北越戦争で河井の右腕となった若き家老山本帯刀(たてわき)は会津までともに敗走したが、河井の死後降伏を勧められても拒絶し、自ら望んで斬首された。わずか24歳。叛徒として家系断絶されたが、その後数十年を経てその家系を復興させたのが山本五十六だった(実は養子)。この五十六は「究極の選択」を迫られた末に世界と開戦し、自らは早く撃墜死しながら、その後の日本を破滅の一歩手前へ導いた。どうだろう、規模こそ違え、その構図はあまりに河井の場合と似ている。ひょっとすると山本帯刀の亡霊を媒介として、河井の怨念が五十六に憑依していたかも、と見るのは穿ちすぎだろうか。…実は亡き早坂茂三が書いている『怨念の系譜』という本があり、未読ながら河井・五十六に角栄を加えた越後三大英雄を並べて回顧しているようなので、「怨念」とやらが那辺なるかちょっと興味ある。ついでにいえば、河井の父親は良寛と親交があったらしく、また河井自身は「米百俵」で有名になった小林虎三郎と友人だった。してみると、特異な越後文化の代表たる良寛に端を発して、河井〜五十六を経て角栄による日本支配と、薩長によるその暗殺(ロッキード事件)、そしてその延長にある小泉政権の思想的根拠とされた小林虎三郎…という具合に、長岡人が日本の近現代史を常に裏で動かしてきた、といえるかもしれない?…なんてことはないか・…
『駆け抜けた蒼龍』は中村勘三郎が河井を演じたドラマで、なかなか力作だった(ちなみに伊藤英明が虎三郎をやってた)。その縁で勘三郎は今度の開館式に来たらしいが、これは野次馬になりそこねた。でも河井の日記『塵壷』直筆原本とか「常在戦場」直筆掛軸とか、貴重な展示品を見てきた。