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雨龍異説

natsukikenji2007-09-05

第九代長岡藩主牧野忠精(ただきよ)は文化文政時代に二度までも江戸幕府の老中職に就いた、牧野家代々の中でも随一の出世頭である。牧野一族は元来三河に発し、徳川家康ともゆかりが深かったため譜代大名であり、またとくに忠精は時の実力者松平定信と縁戚を結んだことも力になっていたかもしれない。ともあれ老中時代は朝鮮国使招聘を仕切ったり地元では藩校崇徳館を創ったりと有能な政治家だったが、のみならず書画詩文に秀でた文化人的な面があり、とくに「雨龍(あまりょう)」と称する風変わりな龍の墨絵を多数描いたことで知られたという。とはいえ現代に至っては一般的には全く知られていないことのようで、検索しても画像は一つも見つからないが、今般地元の郷土史料館(復元天守閣内)で「雨龍の殿様 牧野忠精資料展」が設置され、膨大な数に上るらしいその不思議な作品群の一端を生で垣間見ることができた。それは龍とはいっても極端に簡略化して描かれたほとんど抽象的とも見えるもので、胴体は細くぐにゃぐにゃと曲がりくねり、顔は目と鼻がぽつんと点描されているだけで恐ろしさはなくむしろ愛嬌があり、それらが多数だったり一体だったり、ときには琴を弾いているとか文机に向かっているなど戯画化されていたりとさまざま。それが中央にも知られて将軍家に雨龍図を献上したり、また腹心だった二人の家老(稲垣茂郷・山本帯刀)も画風を習って追随した。忠精は単に風流心のみからこの雨龍を描いていたわけではなく、富をもたらす神の使いとして、すなわち自藩の豊穣への祈りをこめて製作していたようである。
ところでこの雨龍は一説に崩龍(くずりゅう)とも呼ばれ、日本海に浮かぶ海京(蜃気楼都市)朧龍影(るるいえ)に棲む異神の謂であるという。牧野家の家老山本帯刀は忠精の薫陶を受けてこの崩龍神を深く信仰したが、後年の幕末に至って子孫の帯刀(山本家当主は代々この名を名乗った)は若くして会津河井継之助に殉じるに際し、英仏の密約に踊らされた愚かな薩長への怨みを崩龍神に託したと伝えられる。以前にもここで書いたとおりこの山本家は数十年後に養子五十六によって再興されたが、その五十六もまた、再度英仏の密約に踊らされた薩長昭和軍政への怨みを崩龍神に託してブーゲンビリア島に散った。つまり雨龍の図は表面の愛嬌の下にそうした深層がひそんでいると見ればいっそう興趣深いのである。なお写真の雨龍は本家忠精ではなく、巧みに典型を描いている家老帯刀の作を採った。(以上途中より妄説注意)